ジークンドーの歴史
ジュンファン・グンフー/ジークンドーの歴史と継承
ジュンファン・グンフーおよびジークンドー創始の歴史
第1期:詠春拳と精武体育会 |
1953年、ブルース・リー師祖はケンカに負けたことが原因で香港詠春拳の門弟となる。師事したのは「香港詠春門の宗師」と言われていた葉問(イェップ・マン)老師である。
3年間正統門人として修練していたが、とある問題を起こし破門となってしまう。しかし、その後は兄弟子の張 卓慶(ウィリアム・チュオン)に個人的に学ぶことができた。
このことにより詠春拳で学ぶ型(小念頭・尋橋・標指)は修得することができたが、木人椿法118式の型は一部分しか学んでいない。また、兵器である六点半棍および八斬刀は学ぶことができなかった。
1958年、学生ボクシング大会へ出場し、3年間連続チャンピオンのイギリス人を詠春拳の技術を用い、1ラウンドでK.Oした。
1959年、精武体育会香港分会において4週間、中国北派拳術および中国南派拳術の基本功、および「功力拳」「節拳」などの型を学ぶ。師は香港分会総教練の邵 漢生老師である。
ちなみに、精武体育会は秘宗拳で有名な霍 元甲老師が1909年に上海にて設立した「体」「知」「徳」の三育を教育目的とする武術/体育専門学校である。ここでは北方の拳術および南方の拳術など様々な流派の門人達がお互いの存在を敬いながら交流をすることによって、己自身を更に磨き上げる場所でもあった。このことにより国家の繁栄をもたらすことができると考えられていたからである。
同年、詠春門のライバルと呼ばれる蔡李仏門の門弟から挑戦を受け実戦試合をし、相手に大怪我を負わせ警察沙汰となってしまう。この件により米国へと旅立つこととなる。
第1期において修得して実戦に生かされていたのは、まぎれもなく詠春拳である。他には、父から学んだ太極拳、試合で学んだボクシング、精武体育会で学んだ他の中国武術などが経験となって後に生かされることとなる。 また、兄のピーターがフェンシングをやっており、この頃の師祖のフェンシング・コスチュームを着た写真が残っているため、定かではないが兄ピーターよりフェンシングの技術の経験を受けている可能性もある。また、この時期より道教の思想をバック・グラウンドとしておき、後にジークンドー哲学の根幹をなすこととなる。 |
第2期:振藩功夫(ジュンファン・グンフー)創始 |
1959年、シアトルの地を踏んだブルース・リー師祖は、通っていたエジソン・テクニカル・インスティテュートのクラスメートへ無償で詠春拳を教え、その実力は瞬く間に広まることとなった。
このとき知り合い、後にジュンファン・グンフー伝承者となるのがターキー・木村氏である。
1962年、ターキー木村氏の勧めで月謝制の本格的な武術スクールを開設する。
技術的な核は詠春拳であったが、他の武術/格闘技の経験も取り入れられ、実戦向きに改良されていったため、振藩功夫(ジュンファン・グンフー)と名づけられた。ゆえに武術スクールの名称も「振藩國術館(ジュンファン・グンフー・インスティテュート)」と名づけられた。
同年、日本人空手家(黒帯)より挑戦を受け、Y.M.C.Aシアトルのジムにて実戦試合をし、わずか11秒でK.Oした。この時有効となった技術は、詠春拳の“ジク・チュン・チョイ”というストレートの連打攻撃法である。しかし、このとき師祖はチュン・チョイで床に倒れた相手の頭部に蹴りを入れたので、空手家は完全グロッキー状態となってしまった。
1963年、自費にて「基本中国拳法」を出版する。内容的には中国武術に関する原理/原則、基本功、鍛錬法であるが、技術の使い方に関しては、ジュンファン・グンフーが写真として掲載されている。また、本文中の直筆による絵のモデルは、中国大陸において”神拳大龍”として知られている華拳の伝承者、蔡 龍雲老師が出版した本より描写したものである。
1964年、カリフォルニア州オークランドへ移住し、1962年より弟子となったジェームズ・リー氏の家に住みつつ、第2の振藩國術館を開設する。同年7月、ケンポー・カラテ創始者のエド・パーカー氏より招聘され、ロングビーチで行われた「インターナショナル・カラテ・チャンピオンシップス」においてターキー・木村氏と共にジュンファン・グンフーのデモンストレーションを行う。このきっかけにより、ダン・イノサント氏及び”アメリカテコンドーの父”と呼ばれたジューン・リー氏と出会い、交流が始まる事となる。同年末、伝統を重んじる地元の中国武術家達からのクレームを受け、それに反発したため挑戦者ウォン・ジャックマン(白鶴拳)と実戦試合をする事となる。結果は師祖の勝利に終わったが、ジク・チュン・チョイで猛攻に攻めたために相手が逃げ廻り、それを追いかけて捕まえ、倒すまで約3分間もかかってしまった。この事件がきっかけで、師祖は心肺機能向上の必要性と機動力向上の必要性を痛切に感じ、又、中国伝統武術の技術にも疑問を抱くようになった。そしてこれらの思いがジークンドーを創始していく引き金となったのである。
始祖がシアトル入りして1964年頃までに様々な中国伝統武術を研究している。蟷螂拳(北派・南派)・鷹爪門の摛拿・洪家門の虎拳と鶴拳・少林拳系の技術・楊式太極拳・その他兵器など。これは師祖の研究ノートを見て取れるものである。しかし、これらのほとんどは本から学びえた事ではあるが、直線的且つ短打である詠春拳に曲線的な技法を加え、見事なまでに振藩功夫として昇華させている。当時のフイルムを見ても理解出来るが、師祖のスピードはこの時点から既に速かった。特に1964年末の事件以降は更なる進化を追及し、西洋の格闘技(ボクシング・フェンシング・サバット)を書物などで研究している。ジューン・リーと交流した際もテコンドーの足技を経験し、それを独自の考えで改良した事実がある。 |
第3期:截拳道(ジークンドー)創始 |
1966年、グリーン・ホーネットに準主役で出演のためカリフォルニア州、ロサンゼルスへ移住。同年、第1回カリフォルニア州カラテ選手権大会にてデモンストレーションを行なう。
1967年2月9日、チャイナタウンに第3の振藩國術館を開設する。生徒の約9割はダン・イノサント氏がケンポー・カラテの師範代であった事により、ケンポー・カラテの道場から連れてきた人達であった。
そしてこの日を境にジークンドー継承の将来を決定付ける出来事が起こった。それは将来唯一人のジークンドー継承者となる、テッド・ウォン師父がこの日のデモンストレーションと説明会に参加したことである。
この日デモンストレーションされたものは改良され進化したジュンファン・グンフーである。
同年5月、師祖は自らの意思でテッド・ウォン師父を家に招き、プライベート・ステューデントとする。テッド・ウォン師父がその理由を尋ねると師祖は「君がナイス・ガイだから!」と答えたという。
テッド・ウォン師父はこの時点ではまだ武術の初心者であったが、プライベート・レッスン、スクール・レッスン、セルフ・トレーニングにての努力により次第に実力を付け、師父のトレーニング・パートナー及びスパーリング・パートナーになるのである。
同年5月、ワシントンDCインターナショナル・カラテ選手権にてデモンストレーションを行なう。
同年6月、マディソン・スクウェア・ガーデンにて行われた全米カラテ選手権にゲスト出演する。
同年7月、ロングビーチで行われたインターナショナル・カラテ選手権において、デモンストレーションを行なう。このとき初めて全身防具を着用したフルコンタクト・スパーリングを、イノサント氏及びジェームズ・リー氏を相手に披露したが、ジークンドーの定義となる”インターセプション”を見事にパフォーマンスしている。
同年7月、師祖はジュンファン・グンフーとは別に新たな理論で創始している武術に、JEET KUNE DOと名付け、その名を使い出した。その理論とはフェンシングの“ストップ・スラスト”からインスピレーションを得たものである。
1968年、ワシントンDCナショナル・カラテ選手権でデモンストレーションを行なう。
1969年、スクールレッスンにて教伝(ジュンファン・グンフー)に次第に熱意がなくなり始め、レッスンをダン・イノサント氏にほとんど任せ、あまりスクールに行かなくなる。その分プライベート・レッスンがほとんどとなり、テッド・ウォン師父を実験台にして自らのインスピレーションと鍛錬にて創始した、ジークンドーの技法をさらに進化・精錬させていく。又、この時期にランキングシステムも廃止してしまう。
1970年1月、シアトル・オークランド・ロサンゼルスの3ヶ所の道場を閉鎖してしまう。理由はスクールの生徒達がジークンドーには何か特別な技法が有り、それを学びたいと幻想していた事によるものである。
師祖の考えではジークンドーはあくまでも1対1のレッスンで教伝されるものであり、多くの人数に教えても修得出来るものではないと思っていた。又、ジークンドーには特別な技法など一つもなく、ただひたすらに長期間の努力による精錬が必要であると説いた。
同年8月、ウォーム・アップなしでいきなりグッド・モーニング・エクササイズをやったため、第4番仙骨と周辺の神経を損傷し、約半年間の入院状態となってしまう。
初期段階ではベッドに寝たきりの状態であったため、多くの本を熟読してそれを知識とし、多くのメモを書き残した。この期間は常に内面(意識/心/精神)の強化に努めたのである。
次第に回復し始めた頃から少しづつトレーニングを再開し、肉体と意識の調和を会得する。
同年、息子のブランドンを連れて香港へ。ゴールデン・ハーヴェスト社と映画出演の契約をする。
1971年、香港に移住。「ドラゴン危機一髪(The Big Boss)」「ドラゴン怒りの鉄拳(Fist Of Fury)」に出演し、またたく間にスターダムにのし上がる。又、テレビ出演にてデモンストレーションし、ジークンドーのその驚異的なスピードと破壊力を視聴者に見せ付ける。
1972年、「ドラゴンへの道(The Way Of Dragon)」「死亡的遊戯(The Game Of Death)」2本を主演と同時に製作する。
1973年、「燃えよドラゴン(Enter The Dragon)」に主演、及び武術指導する。
同年5月、「燃えよドラゴン」のアフレコ中に意識を失い、病院に搬送される。
同年5月、アメリカにて精密検査を受けに来た際、テッド・ウォン師父に最後のプライベート・レッスンを授ける。
この時師祖は3mの距離を不動の状態から、まばたきの速さで縮める事が出来る程の機動力を有していた。テッド・ウォン師父はこれを体験した時、「これが武術の究極なのでは!?」と思ったそうである。
この時点でジークンドーはほぼ90%まで完成しており、師祖本人の研究メモによると、私が教える武術は“ブルース・リーのスタイルである。”と書き残している。つまり最終的にブルース・リーズ・ジークンドーは師祖が創始したスタイルとなったのである。
同年7月20日、ブルース・リー師祖、香港にて死去。死因は脳浮腫と発表された。
1964年の事件がきっかけでジークンドー創始の構想が生まれ、様々な研究と実践の繰り返しによって徐々に進化を遂げていった訳だが、一番重要な事は師祖がどのような思考を持って、どのようなやり方でジークンドーを創始していったかである。
ジークンドーを創始していくにあたって師祖は特に、フェンシングとボクシングに注目した。この両方の西洋的格闘技は形式を重んじる中国武術や寸止め形式試合の空手と違って、真に相手を打ち倒す実戦的なものであったからである。
又、師祖は科学的及び哲学的な原理・原則をリサーチし、己の求める武術を創始、進化させるために様々なトレーニング用具及びトレーニング方法を考案、開発した。
1967年に行なわれたロングビーチ国際カラテ選手権でのデモンストレーション中にフルコンタクト・スパーリングを観察すると、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用している事が判る。ブルース・リーズ・ジークンドーにおいて最重要とされる技法である。
まだこの時点では高機動のフットワーク、ブロークン・リズム、様々な戦略法は開発されていないが、フィルムを見る限りではすでに基礎構造とインターセプションの概念は出来上がっていたと判断できる。
1973年には神技とも言える事を修得し、真に達人の境地に居た師祖だが、テッド・ウォン師父の話によると、1969年~1970年頃にはそれに近い事はすでに出来ていたとの事である。多くのインスピレーションを受け、多くの時間を費やして努力し続け、多くの時間をテッド・ウォン師父を実験台にしながら実践し、研究を積み重ねていった結果が全てを物語っている。
ジュンファン・グンフー/ブルース・リー ズ ジークンドー正統継承図
(プライベート・スチューデント)