ジークンドーの歴史

ジュンファン・グンフー/ジークンドーの歴史と継承 

 ジュンファン・グンフーおよびジークンドー創始の歴史

第1期:詠春拳と精武体育会

 1953年、ブルース・リー師祖はケンカに負けたことが原因で香港詠春拳の門弟となる。師事したのは「香港詠春門の宗師」と言われていた葉問(イェップ・マン)老師である。
3年間正統門人として修練していたが、とある問題を起こし破門となってしまう。しかし、その後は兄弟子の張 卓慶(ウィリアム・チュオン)に個人的に学ぶことができた。
このことにより詠春拳で学ぶ型(小念頭・尋橋・標指)は修得することができたが、木人椿法118式の型は一部分しか学んでいない。また、兵器である六点半棍および八斬刀は学ぶことができなかった。
1958年、学生ボクシング大会へ出場し、3年間連続チャンピオンのイギリス人を詠春拳の技術を用い、1ラウンドでK.Oした。
1959年、精武体育会香港分会において4週間、中国北派拳術および中国南派拳術の基本功、および「功力拳」「節拳」などの型を学ぶ。師は香港分会総教練の邵 漢生老師である。
ちなみに、精武体育会は秘宗拳で有名な霍 元甲老師が1909年に上海にて設立した「体」「知」「徳」の三育を教育目的とする武術/体育専門学校である。ここでは北方の拳術および南方の拳術など様々な流派の門人達がお互いの存在を敬いながら交流をすることによって、己自身を更に磨き上げる場所でもあった。このことにより国家の繁栄をもたらすことができると考えられていたからである。
同年、詠春門のライバルと呼ばれる蔡李仏門の門弟から挑戦を受け実戦試合をし、相手に大怪我を負わせ警察沙汰となってしまう。この件により米国へと旅立つこととなる。

第1期において修得して実戦に生かされていたのは、まぎれもなく詠春拳である。他には、父から学んだ太極拳、試合で学んだボクシング、精武体育会で学んだ他の中国武術などが経験となって後に生かされることとなる。
また、兄のピーターがフェンシングをやっており、この頃の師祖のフェンシング・コスチュームを着た写真が残っているため、定かではないが兄ピーターよりフェンシングの技術の経験を受けている可能性もある。また、この時期より道教の思想をバック・グラウンドとしておき、後にジークンドー哲学の根幹をなすこととなる。
第2期:振藩功夫(ジュンファン・グンフー)創始

 1959年、シアトルの地を踏んだブルース・リー師祖は、通っていたエジソン・テクニカル・インスティテュートのクラスメートへ無償で詠春拳を教え、その実力は瞬く間に広まることとなった。
このとき知り合い、後にジュンファン・グンフー伝承者となるのがターキー・木村氏である。
1962年、ターキー木村氏の勧めで月謝制の本格的な武術スクールを開設する。
技術的な核は詠春拳であったが、他の武術/格闘技の経験も取り入れられ、実戦向きに改良されていったため、振藩功夫(ジュンファン・グンフー)と名づけられた。ゆえに武術スクールの名称も「振藩國術館(ジュンファン・グンフー・インスティテュート)」と名づけられた。
同年、日本人空手家(黒帯)より挑戦を受け、Y.M.C.Aシアトルのジムにて実戦試合をし、わずか11秒でK.Oした。この時有効となった技術は、詠春拳の“ジク・チュン・チョイ”というストレートの連打攻撃法である。しかし、このとき師祖はチュン・チョイで床に倒れた相手の頭部に蹴りを入れたので、空手家は完全グロッキー状態となってしまった。
1963年、自費にて「基本中国拳法」を出版する。内容的には中国武術に関する原理/原則、基本功、鍛錬法であるが、技術の使い方に関しては、ジュンファン・グンフーが写真として掲載されている。また、本文中の直筆による絵のモデルは、中国大陸において”神拳大龍”として知られている華拳の伝承者、蔡 龍雲老師が出版した本より描写したものである。
1964年、カリフォルニア州オークランドへ移住し、1962年より弟子となったジェームズ・リー氏の家に住みつつ、第2の振藩國術館を開設する。同年7月、ケンポー・カラテ創始者のエド・パーカー氏より招聘され、ロングビーチで行われた「インターナショナル・カラテ・チャンピオンシップス」においてターキー・木村氏と共にジュンファン・グンフーのデモンストレーションを行う。このきっかけにより、ダン・イノサント氏及び”アメリカテコンドーの父”と呼ばれたジューン・リー氏と出会い、交流が始まる事となる。同年末、伝統を重んじる地元の中国武術家達からのクレームを受け、それに反発したため挑戦者ウォン・ジャックマン(白鶴拳)と実戦試合をする事となる。結果は師祖の勝利に終わったが、ジク・チュン・チョイで猛攻に攻めたために相手が逃げ廻り、それを追いかけて捕まえ、倒すまで約3分間もかかってしまった。この事件がきっかけで、師祖は心肺機能向上の必要性と機動力向上の必要性を痛切に感じ、又、中国伝統武術の技術にも疑問を抱くようになった。そしてこれらの思いがジークンドーを創始していく引き金となったのである。

始祖がシアトル入りして1964年頃までに様々な中国伝統武術を研究している。蟷螂拳(北派・南派)・鷹爪門の摛拿・洪家門の虎拳と鶴拳・少林拳系の技術・楊式太極拳・その他兵器など。これは師祖の研究ノートを見て取れるものである。しかし、これらのほとんどは本から学びえた事ではあるが、直線的且つ短打である詠春拳に曲線的な技法を加え、見事なまでに振藩功夫として昇華させている。当時のフイルムを見ても理解出来るが、師祖のスピードはこの時点から既に速かった。特に1964年末の事件以降は更なる進化を追及し、西洋の格闘技(ボクシング・フェンシング・サバット)を書物などで研究している。ジューン・リーと交流した際もテコンドーの足技を経験し、それを独自の考えで改良した事実がある。
第3期:截拳道(ジークンドー)創始

 1966年、グリーン・ホーネットに準主役で出演のためカリフォルニア州、ロサンゼルスへ移住。同年、第1回カリフォルニア州カラテ選手権大会にてデモンストレーションを行なう。
1967年2月9日、チャイナタウンに第3の振藩國術館を開設する。生徒の約9割はダン・イノサント氏がケンポー・カラテの師範代であった事により、ケンポー・カラテの道場から連れてきた人達であった。
そしてこの日を境にジークンドー継承の将来を決定付ける出来事が起こった。それは将来唯一人のジークンドー継承者となる、テッド・ウォン師父がこの日のデモンストレーションと説明会に参加したことである。
この日デモンストレーションされたものは改良され進化したジュンファン・グンフーである。
同年5月、師祖は自らの意思でテッド・ウォン師父を家に招き、プライベート・ステューデントとする。テッド・ウォン師父がその理由を尋ねると師祖は「君がナイス・ガイだから!」と答えたという。
テッド・ウォン師父はこの時点ではまだ武術の初心者であったが、プライベート・レッスン、スクール・レッスン、セルフ・トレーニングにての努力により次第に実力を付け、師父のトレーニング・パートナー及びスパーリング・パートナーになるのである。
同年5月、ワシントンDCインターナショナル・カラテ選手権にてデモンストレーションを行なう。
同年6月、マディソン・スクウェア・ガーデンにて行われた全米カラテ選手権にゲスト出演する。
同年7月、ロングビーチで行われたインターナショナル・カラテ選手権において、デモンストレーションを行なう。このとき初めて全身防具を着用したフルコンタクト・スパーリングを、イノサント氏及びジェームズ・リー氏を相手に披露したが、ジークンドーの定義となる”インターセプション”を見事にパフォーマンスしている。
同年7月、師祖はジュンファン・グンフーとは別に新たな理論で創始している武術に、JEET KUNE DOと名付け、その名を使い出した。その理論とはフェンシングの“ストップ・スラスト”からインスピレーションを得たものである。
1968年、ワシントンDCナショナル・カラテ選手権でデモンストレーションを行なう。
1969年、スクールレッスンにて教伝(ジュンファン・グンフー)に次第に熱意がなくなり始め、レッスンをダン・イノサント氏にほとんど任せ、あまりスクールに行かなくなる。その分プライベート・レッスンがほとんどとなり、テッド・ウォン師父を実験台にして自らのインスピレーションと鍛錬にて創始した、ジークンドーの技法をさらに進化・精錬させていく。又、この時期にランキングシステムも廃止してしまう。
1970年1月、シアトル・オークランド・ロサンゼルスの3ヶ所の道場を閉鎖してしまう。理由はスクールの生徒達がジークンドーには何か特別な技法が有り、それを学びたいと幻想していた事によるものである。
師祖の考えではジークンドーはあくまでも1対1のレッスンで教伝されるものであり、多くの人数に教えても修得出来るものではないと思っていた。又、ジークンドーには特別な技法など一つもなく、ただひたすらに長期間の努力による精錬が必要であると説いた。

  同年8月、ウォーム・アップなしでいきなりグッド・モーニング・エクササイズをやったため、第4番仙骨と周辺の神経を損傷し、約半年間の入院状態となってしまう。
初期段階ではベッドに寝たきりの状態であったため、多くの本を熟読してそれを知識とし、多くのメモを書き残した。この期間は常に内面(意識/心/精神)の強化に努めたのである。
次第に回復し始めた頃から少しづつトレーニングを再開し、肉体と意識の調和を会得する。
同年、息子のブランドンを連れて香港へ。ゴールデン・ハーヴェスト社と映画出演の契約をする。
1971年、香港に移住。「ドラゴン危機一髪(The Big Boss)」「ドラゴン怒りの鉄拳(Fist Of Fury)」に出演し、またたく間にスターダムにのし上がる。又、テレビ出演にてデモンストレーションし、ジークンドーのその驚異的なスピードと破壊力を視聴者に見せ付ける。
1972年、「ドラゴンへの道(The Way Of Dragon)」「死亡的遊戯(The Game Of Death)」2本を主演と同時に製作する。
1973年、「燃えよドラゴン(Enter The Dragon)」に主演、及び武術指導する。
同年5月、「燃えよドラゴン」のアフレコ中に意識を失い、病院に搬送される。
同年5月、アメリカにて精密検査を受けに来た際、テッド・ウォン師父に最後のプライベート・レッスンを授ける。
この時師祖は3mの距離を不動の状態から、まばたきの速さで縮める事が出来る程の機動力を有していた。テッド・ウォン師父はこれを体験した時、「これが武術の究極なのでは!?」と思ったそうである。
この時点でジークンドーはほぼ90%まで完成しており、師祖本人の研究メモによると、私が教える武術は“ブルース・リーのスタイルである。”と書き残している。つまり最終的にブルース・リーズ・ジークンドーは師祖が創始したスタイルとなったのである。

 同年7月20日、ブルース・リー師祖、香港にて死去。死因は脳浮腫と発表された。

1964年の事件がきっかけでジークンドー創始の構想が生まれ、様々な研究と実践の繰り返しによって徐々に進化を遂げていった訳だが、一番重要な事は師祖がどのような思考を持って、どのようなやり方でジークンドーを創始していったかである。
ジークンドーを創始していくにあたって師祖は特に、フェンシングとボクシングに注目した。この両方の西洋的格闘技は形式を重んじる中国武術や寸止め形式試合の空手と違って、真に相手を打ち倒す実戦的なものであったからである。
又、師祖は科学的及び哲学的な原理・原則をリサーチし、己の求める武術を創始、進化させるために様々なトレーニング用具及びトレーニング方法を考案、開発した。
1967年に行なわれたロングビーチ国際カラテ選手権でのデモンストレーション中にフルコンタクト・スパーリングを観察すると、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用している事が判る。ブルース・リーズ・ジークンドーにおいて最重要とされる技法である。
まだこの時点では高機動のフットワーク、ブロークン・リズム、様々な戦略法は開発されていないが、フィルムを見る限りではすでに基礎構造とインターセプションの概念は出来上がっていたと判断できる。
1973年には神技とも言える事を修得し、真に達人の境地に居た師祖だが、テッド・ウォン師父の話によると、1969年~1970年頃にはそれに近い事はすでに出来ていたとの事である。多くのインスピレーションを受け、多くの時間を費やして努力し続け、多くの時間をテッド・ウォン師父を実験台にしながら実践し、研究を積み重ねていった結果が全てを物語っている。
ジュンファン・グンフー/ブルース・リー ズ ジークンドー正統継承図
(プライベート・スチューデント)
ジュンファン・グンフー/ブルース・リー ズ ジークンドー創始者
(ワシントン州・シアトル)

詠春拳、ジュンファン・グンフーを伝授される。

ジュンファン・グンフーを継承

(カリフォルニア州・オークランド)

詠春拳、ジュンファン・グンフー、ジークンドーの基礎構造を教伝される。

ジュンファン・グンフーを継承

(カリフォルニア州・ロサンゼルス)

ジュンファン・グンフーを教伝され継承。

ジュンファン・グンフー最高位を授かる。

(カリフォルニア州・ロサンゼルス)

ジュンファン・グンフー、ジークンドーのすべてを教伝される。ワークアウト・スパーリング・パートナーであったことから、ブルース・リー ズ ジークンドーの技法を創始していく際の実験台となると同時に伝授される。
ブルース・リー ズ ジークンドー最終形態を唯一伝授され継承する。

ブルース・リー師祖他界(1973年)以後
シアトルにおいて、師祖から伝授されたジュンファン・グンフーを後世に伝承し続けている。

ブルース・リー財団ボード・オブ・ディレクターの一人

1972年他界

※現在、オークランドでは、ブルース・リー財団ボード・オブ・ディレクターの一人であるアラン・ジョー師父がジュンファン・グンフーを教伝している。

師祖から教伝された内容を独自の解釈で理解した後、ジークンドー・コンセプト/ジークンドー・ブレンドを創始。
現在、イノサント・アカデミーを組織し、世界中へ普及活動をしている。
15年かけて師祖から伝授されたことをリサーチし、マスターする。
師祖の教伝を一切変えることなく、純粋なブルース・リー ズ ジークンドーを後世に伝承。ブルース・リー財団ボード・オブ・ディレクターの一人

ジークンドーのルーツ

The Roots & Structure Of J.K.D ジークンドーのルーツと基礎構造 

 The Roots Of Jeet Kune Do <ジークンドーのルーツ>

ジークンドーを学び修得していく上で、一番重要となるのが、師祖が努力を積み重ねて研究したジークンドーのルーツおよびそこから開発された基礎構造と基本です。

これをビルに例えれば、鉄骨の柱を組んでいく前の段階、つまり土台造りです。

しかも相当頑丈な土台を造り上げなければ、その上に建つ高いビルは、ちょっとした衝撃に脆くも崩れ去ってしまいます。
以下に示す項目は
師祖自らが「ジークンドーのルーツ」と呼んでいたもので、これらは全てのジークンドーの表現のための土台およびその材料となるものです。

1.肉体的な要素

1)オン・ガード・ポジション(バイ・ジョン・スタンス:攻防が融合した構え)
2)フットワークと機動力(シンプル&ダイレクトとフットワーク・スピードおよびセンター・グラヴィティの関係)
3)力(エネルギー)を伝達させるための姿勢/状態(エネルギー・ラインとパワー・ラインの形成)

2.基礎的な要因
1)バランス
(正中軸と重力およびボディー・フィールの関係)
2)形態の経済性および動作の経済性
(シンプル&ダイレクトとエコノミー・フォームおよびエコノミー・モーションの関係)
3)運用されている力(エネルギー)と解放されているスピードにおける直感的な自己表現
(エクスプロージョンとメンタル・スピードの関係)
4)本質の一貫性における自然で静かな知覚
(高レベルなアウェアネスとスピリチュアリティ、およびパーセプチュアル・スピードとの関係)
5)構造の全体性と意識の全体性
(ストラクチャーとスピリチュアリティおよびボディー・フィールとの関係/陰陽の理論)
6)効率のよいしくみ
(ボディ・メカニックと効率から導き出される重要な要因)
7)敵のリズムに対する我のリズムの調節能力および敵のリズムを妨害する能力
(適応するリズムとブロークン・リズムの関係)
8)調和のとれたユニット(一個人/一団)を伴うことでわき起こる強烈で優勢的なオーラ
(精神のコントロールと意識エネルギーの関係)
9)調和のとれたユニット(一個人/一団)に対することでわき起こる強烈で優勢的なオーラ
(精神のコントロールと意識エネルギーの関係)
10)非公的、非大衆的
(ノン・クラシカルと科学的リサーチの関係)
11)誠実、真実と正直
(心と態度および高い精神性)
12)根本からの機能
(無限/無法と有限/有法の関係)

 ジークンドーにおいてルーツを理解し、強力な基礎構造を入門/初期段階から徐々に構築していくことは、最重要課題となるのです。しかし、ルーツと基礎構造を理解し、基本を修得していくには、たとえ初級者の段階に到ろうとしても相当な努力と年月がかかるでしょう。なぜなら、ジークンドーのこれは他の流儀と比べて、非常に稀で高等であり、特殊な構造をもっているからなのです。一番最初から習うことまでも修得困難なのがジークンドーです。だからといって、これをとばして攻防技術修得や戦略法を学んでも、実戦では何の役にも立ちませんし、上級者レベルに到れるはずもありません。
師祖は、ジークンドーを創り上げる際、フェンシングとボクシングの原理を研究し、そこからインスピレーションを得て、科学的かつ哲学的な原理/原則の元で独自の開発を行っていきました。ですからこの基礎構造と基本もそれらの元で開発されています。それは、「人間が持つ身体のすべてを実戦の中で使用するためには、一番効果的となる方法も含めてベストとなる方法とはどの様なものになるのか」という考察です。そしてこれは天才が一切の妥協を許さず、独自で長年研究し努力を積み重ね、かつ実戦的な実験を繰り返し、創始したものなのです。
ジークンドーを習っていて分からないことがあったときや、技術上で不安が出てきたときは、再度ジークンドーの
ルーツをリサーチすることです。必ずこれを頭にたたき込み表現できるようになっていけば、自然と道は開かれるでしょう。
以下の写真と解説をよく見て、よく読んで、まず最初に
正しくフォームがとれ、正しく機動できるようにトレーニングを積んでいってください。1にフォームとモビリティ、2にスピード、3にパワーです。フォームと機動能力の正確性と効率性が高スピードと超絶な破壊力を生むのです。他にも重要な項目はありますが、何はともあれ、まずはフォームと機動能力が最重要です。
正しきフォームを身につけることの重要さを師祖は、以下のように述べています。

「動作の損失とエネルギーの無駄を最小限にしたパフォーマンスの目的を満たすには、正しいフォームというものが最高の効率性を扱う方法となるものである。常に正しいフォームでトレーニングすること。」

ちなみに師祖が「Be Formless , like water」と言っていますが、この場合のFormは「形」とは訳さず、「型」「形式」「固定概念」という意味でとらえなければなりません。つまり「Using No Way As Way」のことであって、これは「形式ばった檻から解放されよ」という意味です。水にはその性質上の形が存在します。決して火の形ではありません。そして両方とも形式ばった型というものは存在しません。形(Form)というものはこの三次元の世界で存在し、個々特有の表現をするのに必要なものであり、自然なことなのです。ゆえに、ジークンドーもForm(形)を重要視するのです。
ジークンドーのForm(形)は師祖自らが、長年の研究と努力を費やして創始した
独特のものです。私たちは、このForm(形)を学び修得し、そして様々に変化する状況に個々の表現として正直に表現し、適応させてゆくのです。その表現方法に自由と解放があり、ゆえに「Be Formless , like water」なのです。
決して“形”と“型、形式、固定概念”の意味を混同したり、誤解したりしてはいけません。

ジークンドーの創造

Bruce Lee's Jun Fan Jeet Kune Do Seminar the 1st. 2008

ジークンドー創始に関する初考

1964年、ウォン・ジャックマンとの対決において、師祖は自己の肉体と戦闘方法に様々な要素と要因が欠けていることを悟りました。今まで表現してきた詠春拳を含めた中国伝統武術が彼の求めた現実の戦いにおいて効果的ではないことに疑問を抱き始めます。しかし、この戦いにおいて評判や名声が高まっていたので、オークランドのスクールでは、依然として詠春拳をベースとしたジュンファン・グンフーを教えていました。
この戦いが後にジークンドーを開発・創始していくきっかけとなったことは、今現在では有名な話となっています。師祖は他の様々な武術/格闘技のリサーチを開始し、今までのジュンファン・グンフーに取り入れ、さらに改良していきます。きわめて多数の格闘システムに関する本を読み、そこから何が得られるのかをリサーチしたのですが、師祖が読み、リサーチした数々の本の大部分は、フェンシングとボクシングに関するものでした。それらの本には師祖自らが書き記した多量のアンダーラインや注釈が見られますが、それらは師祖が求める一番重要なテーマであり、当時の師祖のグンフーに最も強く影響を与えたものだったのです。
1965年に師祖は一通の手紙を弟子のジェームズ・リーに渡しています。
『僕はグンフー・システムの計画を立てている。そのシステムとは主に詠春拳、フェンシングそしてボクシングの統合によるものである。』
こうしてジークンドー創始への第一歩がこの時より始まったのです。しかし、当然ジークンドーという新しいスタイルとしての構想はこの時点ではまだありませんでした。


師祖がジュンファン・グンフーを改良、進化させる際、そしてジークンドーを開発、創始する際に、古今東西の武術/格闘技をリサーチしていたことは事実として知られています。

 他流儀のリサーチに関する考察

そのリサーチの大部分は、書籍からによるものでしたが、いくつかの流儀に関しては、実際の交流から行われたようで、師祖はこのリサーチに関して非常にストイックに熱意をもって研究に没頭したそうです。
今まで世間一般に伝わってきたことでは、
『ブルース・リーが創始したジークンドーとは、古今東西の様々な武術/格闘技を研究し、各種の技術の長所を取り入れ、それらを組み合わせたものである。』という内容のものが非常に長い期間、世界中で信じられ続けてきました。つまり、師祖は他流儀をリサーチした際、おのおのの技術の長所を抜き取り、状況によってそれらを組み合わせて実戦に応用していた、ということになります。
しかし、当時の歴史の真実を紐解いていくと、上記の説明が曲解された、つまり誤った解釈であることが数年ほど前より明確になってきました。
師祖は、流儀(特に伝統派)の形式的な概念が人々を分断しており、その教義が人々の自由への解放を束縛していると説きました。また、形式的な教義による戦い方では、常に変化してやまない状況の中では、決して適応していくこともできはしないと信じていました。
そのため他流儀をリサーチする際に、基盤となる考察をたてたのです。

『人間の五体・身体の体重・技術と戦略・物理法則・哲学的原理/原則、それらをたえず変化してやまない実戦の中で、最も効果的かつ効率的に使用(応用)できるようにするには、何をどのようにすればよいのであろうか。』

 師祖は他流儀をリサーチする上でこの考察を基盤とし、各技術を実際にパフォーマンスし、その技術の裏に隠れている原理を解明したのです。様々な流儀の打撃技術、組み/関節技術などは上記の考察によってふるいにかけられ、一致に値しないものは即、除かれることとなりました。

 フェンシングとボクシングに関する考察

師祖は、己の武術に足りない要素と要因を修得するため、様々な種類の流儀に関する書物を徹底的にリサーチした訳ですが、それらの書物の大部分はフェンシングとボクシングに関するものでした。
フェンシングに関しては、アルド・ナディ、ジュリオ・マーティンツ・キャステロ、フーゴ・キャステロ、ジェイムズ・キャステロ、ロジャー・クロスニールなどの書物を読み、特にアルド・ナディから強く影響を受けました。

ボクシングに関しては、ジム・ドゥリスコル、ジャック・デンプシー、エドウィン・ヘイスレットなどの書物を読み、特にジム・ドゥリスコルおよびジャック・デンプシーから強く影響を受けました。
以下に示すものは、師祖がフェンシングとボクシングの特殊な要素・要因を研究/実験した結果、インスピレーションを得てジークンドーのものとした項目です。これらのディテールは非常に精密に正確に表現されなくてはならないのです。

 

1).フェンシング→ジークンドー
・ジークンドー・バイジョン・スタンス(オンガード・ポジション)<攻防が融合した構え>
・フットワーク<高機動能力、角度変更、リズム変換(チェンジ・ビート、ブロークン・リズム)>
・間合いの調整方法<間合いの詰め方や離し方の自在性・・・空間のアジャストメント>
・ハンド・ビフォアー・フット<打撃の破壊力増加、自重のピンポイント移動とその加重方法>
・ターゲット・ライン<ガン・サイトの原理>※最短の距離を形成するエコノミー・ライン
・主な戦略法<SDA,SAA,PIA,ABDなど>
・インターセプション
※“ストップ・スラスト”→“ストップ・ヒット”の定義から“ジークンドー”の名が誕生する。
 

2).ボクシング→ジークンドー
・人体工学と連鎖運動力学<五体の効果的かつ効率的な運用方法>
・最高出力の出し方<打撃のスピードと破壊力の関係および内外のエネルギー感覚>
・パワー・ライン<ストレート系パンチのエネルギー経路・・・貫通と破壊力に影響>
・バーティカル・フィスト<ストレート・リード・・・ジークンドーのコア(核)となる最重要技法>
・スリーナックルの使用(中指・薬指・小指側の3点・・・パワー・ラインに関係)
・正しい整列性<物理学、力学、人間工学の応用>
・プッシュ・オフ(トリガー・ステップ)<全自重の瞬間移動・・・攻防両方法に応用>
・肩と腰の旋回<旋回と螺旋によるエネルギーの使用と応用およびヒンジとテコの原理>

ジークンドーの創始に最も強く影響を与えたフェンシングとボクシングですが、大変重要な点を述べておかなければなりません。それは、ジークンドーはフェンシングでもないし、ボクシングでもありません。また、両方の技法の混合でもないということです。加えてジークンドーに武器術はありません。
つまり、師祖は、両方の科学的分析をし、改変・改良し、常に変化してやまない状況での現実の戦いに適応するよう実験を繰り返し、特殊かつ独自の技法で構成された新しいスタイルを創始しようとしていたのです。
フェンシングもボクシングもジークンドーを開発していく際、新たなインスピレーションを得るための最高の材料となったということです。

 

影 響

インスピレーション

截拳道
Jeet Kune Do

Fencing Boxing J.K.D

 ジークンドー創始に関する考察とその伝承

1965年に新しいグンフー・システム開発の計画を練り、1966年、グリーン・ホーネットの撮影のためロスアンゼルスに移住。1967年2月、L.Aのチャイナタウンに第3のジュンファン・グンフー・インスティテュートを開校しました。この間師祖の研究は進んでいきましたが、本格的に様々なことを実践し始めたのは、グリーン・ホーネットの全撮影が終わった後でした。
L.Aチャイナタウン校で教えられていたのは、シアトル校とオークランド校で教えたものにボクシングとフェンシングや他流の考察が混じったもので、ジュンファン・グンフー後期形態です。テッド・ウォン師父が開校日で見た師祖のデモは、ボクシング的な要素が強かったと語っておられることから、師祖のグンフー・システムの開発は結構進歩していたことになります。
ただし、これはあくまでジュンファン・グンフーとしての進化であって、この時点ではまだジークンドーとして創始されていたわけではありません。
師祖は1967年夏頃までに自分自身が開発していく武術に、一つの定義を設けました。その定義とは、フェンシングの理論から影響を受けたものであり、“相手の心や身体の動きをさえぎること”というものです。アイデアとして
『対戦相手を最も傷つきやすい状態にさせた中で、打撃をもってさえぎる。』ということで、この方法論を英訳すると“The Way Of The Intercepting Fist”となり、広東語で“Jeet Kune Do(截拳道)”と名づけられました。ブルース・リー財団の発表によりますと、Jeet Kune Doという英名を表し、使いだしたのが1967年7月とのことです。ただし、截拳道という漢字を初めて創案したのは1967年1月であったそうです。
師祖はフェンシングのアイデアの中でも特に、Straight Thrustを重要視し、これを“Stop Hit”としてインターセプト理論に応用、実践していきました。1967年、ロングビーチで開催されたカラテ・トーナメントにおける師祖のデモ(スパーリング)を見てもわかるとおり、リード側のストレート・パンチとフック・キックを多用しています。実は、この二つの技法は、ジークンドーにとって非常に重要な技法で、師祖が相手をインターセプションする際、最も多用した技法なのです。

『フェンサーの剣がいつも一列に整列しているように、リード側のジャブは対戦相手に一定の脅しを与える。基本的にそれは剣を使わない西洋剣のフェンシングで、主要なターゲットは相手の目である。』
ゆえにこれをジークンドーのコア(核)とする技法としたわけですが、テッド・ウォン師父をワークアウト・パートナー兼スパーリング・パートナーとして抜擢し、様々なトレーニング方法を開発しながら実戦に効果的となるよう繰り返し繰り返し実験を行い続け、ジークンドーは師祖が目指す形態へと進化していきました。

テッド・ウォン師父の話では、スクールで教えていたこととプライベートで開発していたものは、違うものであったそうです。つまり、スクールで教えていたものはあくまでジュンファン・グンフーであり、プライベートでテッド・ウォン師父が実験台となり開発されていき、その時教えられたものがジークンドーなのです。しかし、この時でさえもジークンドーは開発途上にあったので、非常に少数の弟子にのみ教伝されたそうです。また、以下に示すジークンドーを教えるための条件を、アシスタント・インストラクターも含めてすべての生徒に出していました。

1.ジークンドーの教伝はプライベート・レッスンであること。(1対1の教伝でなければ修得は困難となるため。)
2.他流儀のトレーニングと同時進行していないこと。(ジークンドー以外の流儀を同時にやると、修得が困難となるため。)
3.教伝された内容を他流儀に流さないこと。また、教伝された内容に他流儀の内容を組み合わせないこと。
(師祖自身が開発・創始し、教伝したものの純粋性を保護するため。)

ジュンファン・グンフーとジークンドーは初期の創案・開発において、そのベース(基盤と構造)となるものが別のものから創られているため、当然表現方法が異なってきます。ゆえに師祖はジークンドーの開発をしながら同時に、その修得の難しさにも気づきました。また、スクールの生徒で師祖から習ったことを他流(ケンポー・カラテ)と混ぜようとしたり、他流に教えた事件などもあったので、上記の条件を出したのです。この時、師祖は他流もやる生徒に対し、次のように語っていたそうです。
『僕から習うことだけで十分なのに、なぜ彼らは他の流派までも学びたがるのだろうか。』
こうしてリサーチしていくと、基礎構造や基本の初期段階を習えた生徒は若干おりますが、それ以上を学ぶことができたのは、生徒の中で一番師祖と時間を共にしたテッド・ウォン師父だけだったのです。

この事実は、師祖が常に記していたスケジュール帳から確認することができます。それと、テッド・ウォン師父の動きが師祖のものと非常に酷似しているという点と、教える内容や動きが他の師父たちのものと比較すると、違いがありすぎるという点から、ジークンドーとジュンファン・グンフーの表現方法に異なりがあることが判明します。
1969年になると師祖は、あまりスクールでの教伝に意欲をなくしてしまうようになり、教えに行く回数も減っていきました。つまり、詠春拳を母体としたジュンファン・グンフーを教えることに意欲をなくし、ジークンドーの更なる進化と非常に少数の弟子にのみ教伝していくことを望んだからなのです。テッド・ウォン師父によりますと、師祖は自分自身の進化のためには常に熱意を持ち続けた人であったが、教えるということに関しては、あまり熱意を持った人ではなかったと語っています。
この年、師祖は詠春拳の兄弟子であったウィリアム・チョン(張 卓慶)に手紙を送っています。

 『ウィリアム、僕はいまだに自分を中国人とよんでいるけど、中国伝統武術への信頼を失ってしまった。なぜなら基本的にすべての流派は陸の上の水泳みたいなものだからだ。たとえ詠春拳であっても。
だから僕が行っているトレーニングの傾向は、ヘッドギア・グローブ・胸当て・膝とすね当てなどを装着して、ストリート・ファイト(実戦)でより効果を発揮させる方向性を持ったものなんだ。
5年が過ぎた今、(打撃を)空振りしてしまうことになるトレーニングに浪費されてしまうのではなく、(実戦で効果的に勝利するという)目的のために最高にハードなトレーニングをやり続けてきたんだ。』

 そしてついに1970年1月、3ヶ所すべてのジュンファン・グンフー・インスティテュートを閉鎖してしまい、グループによるレッスンは2度と行うことはありませんでした。以後、師祖に選ばれた非常に少ない生徒のみへ、プライベート・レッスンによるジークンドーのみの教伝がなされたのです。

 

Wing Chun Kune J.F.G.F J.K.D

 ブルース・リー ズ ジークンドー最終形態への進化

ブルース・リー ズ ジークンドーは、師祖独自による研究、インスピレーション、精錬をするハード・トレーニング、そしてテッド・ウォン師父を相手にきわめて多数のスパーリングを通した実験により、創り上げられてきました。それは最終的に晩年の師祖が“ブルース・リーのスタイル”と言っていた通り、師祖独特のスタイルとなったのです。独特のスタイルとは“精錬され尽したスタイルの無いスタイル”で一般的な伝統他流儀のスタイルとは異なります。しかし、“スタイルのないスタイル”といっても、確実に師祖独特の表現方法で存在しています。
ブルース・リー ズ ジークンドーは、以下に掲げる考察と哲学的原理、哲学的原則(ジークンドー哲学)を元に、自己実現の定理をもって科学的リサーチを進めながら精錬され、進化と発展を遂げていきました。

<考察>
人間の五体(1幹の胴体・2本の手腕・2本の足脚)・身体の体重・技術と戦略・物理法則・哲学的原理/原則、それらをたえず変化してやまない実戦の中で、最も効果的かつ効率的に使用(応用)できるようにするには、何をどのようにすればよいのであろうか?!
 

<哲学的原理>(1965年頃より提唱)
1.Simple(単純化)
2.Direct(直接化)
3.Non-Classical(非伝統化)
 

<哲学的原則(ジークンドー哲学)>
1.Using No Way As Way(無法を以って有法と為す。)
2.Having No Limitation As Limitation(無限を以って有限と為す。)
 

<自己実現の定理>
1.知ること(知っていること)だけでは充分ではない。我々はそれを(人生の行動の中に)応用しなければならない。
2.思っている(考えている)だけでは充分ではない。我々はそれを(日常の中で)行動に移さなければならない。

1970年8月13日、この日師祖は人生の中で最大の転機をむかえることとなります。日常のハード・トレーニングによる身体組織の疲労と、アメリカ映画界にある人種差別から来るストレスの蓄積が重なった中で、ウォーム・アップなしでいきなり“グッド・モーニング・エクササイズ”という背筋を鍛えるトレーニングをしたため、第四仙骨の神経を損傷し、約半年間の入院を余儀なくされてしまいます。しかもその時の医師からは、一生武術をすることは不可能であると宣告されてしまうのです。
この時師祖は、武術への熱意をさめないようにするため、武術関係・科学関係・哲学/思想関係・心理学関係・医学関係・自己啓発関係など非常に多くの書籍を熟読しました。
特に師祖の心に深く刻み込まれたのが、インドの哲学/思想家:クリシュナムルティが述べた内容のものでした。これは
『自己依存の概念』で、“他に頼って生きるのではなく、自分自身のすべてをもって人生を切り開いていく。”という思想から、実相世界である現実の中で行動していくものです。
師祖は、自らの考えが正しいことを知り、今の現実を変えるための努力をしました。その努力は身体をメインにトレーニングするのではなく、意識のレベル・アップを計るトレーニングでした。ただし、身体のトレーニングを全くしなかったわけではないようです。テッド・ウォン師父は何回もお見舞いに病院に訪れていますが、とある日に訪れた時には、師祖が身体のトレーニングをしていたと語っておられます。
身体のトレーニングとは陽のトレーニングであり、意識をレベル・アップするトレーニングは陰のトレーニングです。つまり、師祖はこの最悪の事態を経験し、それを自らの能力で超えることにより陰陽バランスの調和を得て、退院した後のトレーニングにより持てる能力のすべてが向上したのです。
さまざまな知恵と知識を得、自己依存の概念を現実のものとした師祖は、入院中に7冊にものぼる自己の研究書を書き上げました。これが後に“Tao Of Jeet Kune Do”および“Bruce Lee’s Commentaries on the Martial Way”などを代表とした書籍として出版されることとなったのです。

映画出演のため香港に移住した師祖は、非常に多忙な仕事に追われながらも、自身とジークンドーの更なる進化のため、ハードなトレーニングを自らに課していました。
そしてついに“無法と無限”の境地に至り武術の達人となり、ジークンドーも約90%程まで完成したのです。この境地に関して師祖は『燃えよドラゴン(ディレクターズ・カット)』の中でそのいくつかを述べています。また、“スタイルの無いスタイル”の表現方法を『死亡遊戯』の中で表現しています。当然その表現はアクション的に描かれてはいますが。
この時の師祖の“武術の達人”としての能力は、はるかにレベルの高いものを有していました。超常的な様々な種類のスピード・超常的な破壊力・心と身体の強大な耐久力・様々に変化していく状況に確実に適応することのできる能力など、想像もつかないレベルの境地に存在していたことは事実です。この境地に至った達人の技法をテッド・ウォン師父は、最後となってしまうスパーリングの中で体験しています。その時テッド・ウォン師父は、
『これが武術の究極なのではないか!』と思ったそうです。
師祖は、更なる進化と発展を目指していましたが、1973年7月20日、その夢は現実のものとはならない状態となってしまいました。しかしこの時点でジークンドーの歴史が終わったわけではありません。若くして他界してしまった師祖ですが、遺産として残ったものは後世に受け継がれています。特にブルース・リー ズ ジークンドー(ジュンファンジークンドー)最終形態に関しては、テッド・ウォン師父が唯一体得しており、年を重ねていっても常に能力を向上させていけることが、今現在では判明しているため、『将来ブルース・リー ズ ジークンドーが失伝してしまうという事態には決してならない!』と自信を持ってお伝えしたいと思う次第です!

 


欧米諸国・カナダ・香港・中国・台湾
※修練者は年々増加。
伝  承
日本<ジークンドー・ジャパン>
※継承レベルは世界でも高レベルに位置!
※セミナー伝承レベルは世界最高レベル!

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